this page is...novel『VAL'S ヴァルス』
そのバーの名を征士が認識したのは、カウンターで一息ついてからだった。店名のロゴが印刷されたコースターにじっと目を落とす。
何があった、という訳ではない。訳ではないが、精神的に疲れていた。
産業界でも名高い企業グループ会長の孫にして、29歳で傘下系列会社社長。恵まれているとは我ながら思う。立場に不満はないし、それゆえの苦労も覚悟はしていたが。
(どいつもこいつも・・・考えの古い狸と狐ばかりだ・・・)
征士の脳裏には、グループ内の系列会社や取引企業の社長・役員連中の顔が次々と浮かぶ。
(青年実業家?笑わせる・・・。壮年や老年の間違いだろう。腹の出た狸や皺だらけの狐じゃないか。『青年』が聞いて呆れる。まぁ、年はいい。有能ならば。しかしどう考えても建設的とは思えない、黒い腹の探り合いから始まる画策(と言えば聞こえのいい足の引っ張り合い)ばかりではないか。)
ふつふつと腹に溜まったものがこみ上げて来る。留学経験もある《若い》青年実業家にとって、この風潮は理不尽でならないらしい。
征士はどうしても一人暮らしのマンションへまっすぐ帰る気になれず、目に付いたバーへ一人ふらりと立ち寄ってしまったのだった。
ジントニックの氷を揺らして、一つ、ため息をつく。
いつまでも狸と狐のために憂鬱を引きずるのも癪に障る。
ストレスで禿げでもしたらどうしてくれる?いやいや、それでは奴らの二の舞だ。
よる年波にも変わらず(頭髪も)健在な祖父の顔がちらりと脳裏に浮かんだ。自分も大丈夫か。
バカな事を考えたら少し楽になった。ため息一つで気分を変えようと、征士は今更のように、適度に照明の抑えられた店内を眺めた。シックな店内はそこそこの客入りだ。バーの内装は高級感もあって落ち着いているが、すぐ近くに有名なディスコがあるということもあって、程よい喧騒が逆に心地よい。選ばずに入った店だがなかなか当たりだったなと、少し気持ちも浮上した。
「今晩は。ケンさん、喉渇いちゃった・・・何かちょうだい」
ふいに征士のすぐ近くで声がした。高くはないがよく通る声。
「いらっしゃい。かなり踊ってらしたんですか?」
カウンターの中にいた比較的若いバーテンダーがそれまでの寡黙さから一変、ひどく優しそうに気遣うのに、その常連らしい客は「ちょっとね」などと答えながら征士から一つ置いたスツールにスルリと腰掛けた。
その滑らかな動きに視線を流して・・・微かな衝撃すら伴って、征士は目を奪われた。
何故か懐かしさを覚える。
涼やかな感じの美人だった。
いや、男だということは声で分かっている。それでもやはり、美人なのだ。
スタイリッシュなスーツを程よく着崩したのが文句なしに似合っている。
すらりと身長もあるその体つきは華奢で、しかししなやかさを感じさせる。
染めているのか蒼いさらさらの髪と、小さな顔の中で気だるい輝きを帯びた青い瞳が特に印象的だ。
背後のボックス席からの呼びかけに振り返り、愛想よく笑って手を振ったその顔は、ディスコから引き揚げてきた直後らしく上気してうっすら汗を浮かべ、ひときわ艶を放っていた。卒なく差し出されたおしぼりをロールしたまま額に当てて、気持ち良さそうにため息をついている。・・・・・目が離せない・・・。
「どうぞ。薄めにしておきました」
何か、とのあいまいな注文にもかかわらず迷わず差し出されたグラスを、彼はありがとうと微笑んで口へ運ぶ。その仕種もグラスを持つ先細りの指も、本当に奇麗だった。
細く白い喉がグラスの中身を嚥下する動きをも凝視していた征士の視線にやっと気づいたのか、神秘的な青い瞳が不思議そうに向けられて・・・すぐに気まずげな笑みに変わった。
「あ・・・ごめん。うるさかったな・・・」
「いや、そんなことはない・・・」
どうやら自分のキツイ視線が誤解させたらしく、征士は慌ててフォローにもならない言葉を返す。
「・・・・・どこかで会わなかっただろうか?」
征士は場を取り繕うための思いつきを口にしたつもりはなかった。
ただ、本当にそんな気がしたのだ。微妙に懐かしいような、好ましい感じ。美人は好ましいに決まっているけれど、それだけではない何か。
「・・・俺と?」
彼は驚きに一瞬目を見開き、そしてさも楽しそうにクスクス笑いながら首を振った。
「会ってない、と思うよ」
「そうか・・・私の気のせいか・・・」
少しの落胆を声に出す征士に、まだ笑いながらの肯定が返る。
「この店は初めて?」
自分の横のスツールを引いて勧めてみると、笑ったせいで涙の浮かんだ目元に手をやりながら、彼が隣の席へ移ってくる。
「俺はトーマ」
お前は?と首をかしげる子供のような仕種に目を奪われながら口を開いた。
「私は・・」
「トーマッ」
征士の言葉を遮るように、背後から微妙に語気の強い声がかけられた。
「帰ろう、送ってくから。もう皆外で待ってるぞ」
見せつける様に肩にかけられた手の持ち主を振り返ると、一応ハンサムな部類に入るだろう今風の優男だった。
「ん、ごめん。ちょっと待って」
それに答えて彼はグラスを干す。
会話を邪魔された不機嫌を顔に出してしまったのか、と征士は少し考えた。あまりにもその闖入者があからさまに睨むので。
その視線と穏やかでない雰囲気に気づいたのだろう。彼は執り成すように言葉を継いだ。
「あ・・・すぐに行くから車回してて」
な?という様に奇麗に微笑まれて、やっと、それでもまだ心配そうに優男は引き下がった。
「ごめんな。俺が頼りないから周りが気を回しすぎるんだ」
幾分目を伏せて謝りながら、待たせているのを気にして彼は立ちかける。
「いや、気にするな」
そう言いながら、帰してしまいたくない未練で征士の目は彼の動きを追ってしまい、
吸い込まれそうな青い目と正面からぶつかった。深い深い青。
ほんの短い一瞬だったのかも知れないが、征士には長く感じられた。
動けない征士に彼はいたずらっぽくニヤッと微笑み、征士のスーツの胸元へ手を伸ばす。
自分の胸からボールペンが抜かれるのにも反応できず、ただ彼の動きを見つめることしかできなかった。
トーマと名乗ったその人は、自分のグラスの下からペーパーコースターを取って裏返すと、少し考える素振りの後にカツカツと音をさせて書き付ける。
「これ、俺の連絡先。気が向いたら連絡ちょーだい。えっと・・・・・?」
「征士だ」
「せいじ、ね」
噛み締めるように繰り返された自分の名前が不思議な響きをもつ。
カウンターの上、コースターを滑らせて。
慌しくてごめんと、最後にもう一度謝ってから、彼は軽い足音を立てて去っていった。
黒い石造りのカウンターの上、残された白いコースターを、征士はやけに緩慢な動きで手に取った。
『当麻』・・・と、名前に続けてハイフンで3つに区切られた10桁の数字。
余に強烈な印象に、それでも随分煩悶した挙句、征士は三日後、その電話番号を押すことになる。
立ち寄ったバーでほんの少し話しただけの人間に、連絡先を聞いたからといって本当に電話してしまう自分が信じられなかったが、どうしても思考が逃げられなかった。始めに目を奪われた瞬間に魅入られてしまったのだと諦める。惹かれるものは仕方がない、と吹っ切った征士の胸から、狸と狐への苛立ちはさっぱりと消え去っていた。
不思議と惹かれた彼の正体を把握するのは、意外と簡単だった。コレクションのステージを中心に活躍するファッションモデル。彼がもつ神秘的で個性的な色彩と、ユニセックスな容貌などで特に人気らしい。メンズモデルとしてはどうかと思われる童顔や線の細ささえも逆に受けている。ファッション誌を開かなくても表紙でお目にかかれる程有名らしく、有名税と言って良いのかどうか、フォーカス系の雑誌も色々な女性と共にたびたび賑わしている。どこかで会った事があるような気もした筈だ。街中の広告看板・ポスター、電車の吊り広告、テレビCM等で頻繁に、一方的にお目にかかっている。彼の名前は『TOHMA』。本名は公表されていない。しかし征士には既に知らされている。初対面で本人から貰ったメモ。そして苗字も、そう時を隔てず知ることになる。羽柴当麻、それが彼の本名。